私は、善意というものの存在が少し苦手です。
人間はみんな自己中に生きれば良いと思っている。
みんながみんな、それぞれ、自己中に生きれば意外とうまくいくんじゃないか。とずっと思っている。
それぞれの我が強い海外の国あたりはそんな感じなんじゃないかな。と思う。
しかし、日本は、思いやりの文化だ。
相手を思いやる人と、自分の事しか考えない人が共存するのは、難しい。
全員自己中であれば、気にならないのに、「相手の気持ちを考えよう!!」という考え方もあるので、自己中な人は白い目で見られる多い・・・
アビリーンのパラドックス
アビリーンのパラドックスというのがあります。
これは、集団が決定する事が、一人一人の実際の好みと全く別のものになってしまうパラドックスである。
アビリーンというのは、アメリカの都市の名称です。
私の言葉で説明するとこんな感じ
父「アビリーンの遊園地に行かないか?(娘が多分行きたいだろう・・・運転が面倒くさいから本当は行きたくないけど・・・)」
娘「わーい・・・(面倒くさい・・・家でゴロゴロしていたいけど、父親が行きたそうだ・・・)」
母「あら良いわね(2人が盛り上がってるから、行ってあげるか・・・人混みが嫌だから本当は行きたくないけど・・・)」
かくして、家族はアビリーンの遊園地に向けて出発したのだった・・・
お互いの事を考えすぎるあまり、誰も行きたくもないアビリーンに家族みんなで行ってしまうという悲劇です。
私はこの後の遊園地を想像すると心が痛いです。
誰も、楽しくない遊園地で、お互いのためを思って、楽しい演技をし続ける家族・・・
構成員の議論を通して集団の決定をなすときには互いに「ほんとうにアビリーンに行きたいのか?」Are we going to Abilene? を問い直さなければいけない
ちなみに私は、遊園地が苦手ですw
便器のクモ
コチラはアメリカの哲学者である、トマス・ネーゲルさんが主張した思考実験です。
ある子供が、便器の中に住んでいるクモを発見する。
便器の中という汚い場所にいるので、子供から見れば、クモの人生は楽しそうには見えなかった。
子供はクモを便器から出してあげようとするが、上手く出せずクモは死んでしまう。
便器というのは、確かに私たちから見れば汚いところですが、クモは好きでそこにいたような気がします。(多分エサもあるし)
子供は良かれと思って、出してあげようとしましたが、結果は最悪のものでした。
クモの人生が楽しそうに見えなかったというところもポイントです。
クモの幸せは誰が決めるのでしょうか・・・
この例は誰から見ても「おせっかいだなぁ!」と思うような内容ですが、普段の生活の中にも、同じような事例が、気付かぬうちに発生している可能性は大いにあります。
子供は、心の底から、クモを助けようとしたのですから。
その精神状態から自分の行いが正しいのか、正しくないのかを問い直すのは非常に難しいでしょう。
今、ガット・リベロの事を思い出しました。
イタリアでは、野良猫を「自由猫」と呼ぶそうです。(私も、かの有名な自由ネコさんのブログを読んで知りました)
猫はいたいからそこにいるのだ、という自由意志を尊重しています。
「野良猫」という名称はすこし可哀相なニュアンスを含んでいそうですが、猫の自由意志を尊重して自由ネコと呼ぶイタリアの考え方も素敵だな。と思います。
自由ネコならぬ便器グモですねw
クモはいたいから便器にいるのだ。
私もトイレが落ち着くから、トイレに篭っているのだ。(謎)
いらないプレゼント
コチラは私の体験談です。
人から微妙なプレゼントを貰うと厄介という話です。
捨てにくいし、売りにくい。
何年か前の嫁の誕生日に、私は化粧品ケースを贈りました。
しかし、よくリサーチもせずに買った安物で、どうも使いにくそうでした。
でも、嫁は私に貰った物だったので、無理して使っていたような感じでした。
私は、贈り物がちょっと微妙だった責任のようなものを感じ、「無理して使わなくてもいいよ。」と言い。最終的には、私の手で捨てた。
結局、私は最近、嫁に現金を送る事が多いですw
人からのプレゼントはちょっと使いにくい微妙なものであっても、捨てにくいし、邪険に扱えないので、扱いに困る。(良い物だったら良いんだけどねぇ)
タダより高いものはない。というやつだろうか。
他にも千羽鶴の贈り物なども賛否両論がある。千羽鶴は役に立たないとか、いやいや、気持ちが大事だ。とか議論は終わりません・・・
相手の事を想って贈る。という贈り物が相手の為になるかどうかは、わかりません。
誰かからこうして欲しいと期待されていると思い込んでいる
コチラも私の体験談です。この記事にも書きましたが。
なんか、まわりの無言の圧力のような事を感じる事がよくあります。
上司に、もっと仕事の効率を上げろ。って思われているような気がする。
親に、早く子供作れって思われているような気がする。
ちゃんと就職しろ。って思われているような気がする。
嫁に、もっと金を稼げって思われているような気がする。
あいつに嫌われているような気がする。
しかし、思われているような気がするだけで、実際に言われたことはない。
これはアビリーンのパラドックスと同じだ。
私が、勝手に、誰かの心の中を邪推して、勝手に心を悩ましているだけなんだ。
こんな事に一喜一憂するのは、無駄なんだ・・・
すべて忘れて、自分のやりたいことに焦点を当てなければ。
考える猫さんのブログ
私が良く読んでいる考える猫さんのブログからです。
私がこの記事を書くキッカケとなった記事です。
ある家族がアスパラガスを食べているときの話だそうですw
妻や子供の為に、
(きっとみんな根本を食べたいだろうから、俺は率先して穂先を食べよう!)
そう思って、穂先ばっかり選んで食べていたそうです。
すると奥さんに「なんで柔らくて美味しい穂先ばっかり食べちゃうの!?」と言われたそうです。
とても興味深い話です。
コレも、まさにアビリーンのパラドックスだと思います。
結局・・・根本が好きな人が穂先を食べて、穂先が好きな人が根本を食べる事に・・・
奥さんがビシッっと言ってくれている事で、アビリーンの悲劇にはならなそうですね。
相手の気持ちを考えて押し黙る人ばかりでなく、ビシッと自分の気持ちを言ってくれる人がいると、アビリーンの悲劇を回避できるのかもしれません。
まとめ
相手が口にしないことに関しては深読みしない方が良いのかもしれません。
相手が不満なのか、満足なのか。そんな事を考えても、結局はわからないのだから、考える時間が無駄なのかも知れません。
人間、いや、生物は自分の目以外から世界を見ることができません。
であれば、そもそも、他人の気持ちを推し量る事じたいが、不毛なことなのかもしれません。
勝手に相手の気持ちを邪推して、本当は思ってない事に一喜一憂する。
人目を気にしすぎていると、自分の本当にしたい事ではなくて、他人に期待されたように、他人のために人生を生きてしまう。
すべての人が、それぞれ自分の好きなように生きれば、こんな変な事は起こらないはずだ。
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