私は少々生きることに悲観的です。
日曜の夜や、仕事が上手くいかない日、すべてが嫌になったとき、頭の中でこだまする言葉があります。
芥川龍之介「人生は地獄よりも地獄的である。」
ネガティブなとき、私の脳内はこの言葉で埋め尽くされます。
芥川はとんでもない言葉を残してくれたな。と思っています。
この言葉は一生消えない呪いのように、私の脳に深く刺さっているのです。
芥川龍之介の『侏儒の言葉』
この言葉は、芥川龍之介の著書『侏儒の言葉』の中の言葉です。
短い文章がいくつも書かれている本で、今風に言うと芥川龍之介のブログのような感じです。
地獄よりも地獄的という言葉は「地獄」という題名の文章に登場します。
そして、「人生は地獄よりも地獄的である。」には続きがあります。
その続きを読んでこそ、芥川の真意が読み取れます。
地獄
人生は地獄よりも地獄的である。
地獄の与える苦しみは一定の法則を破ったことはない。たとえば餓鬼道の苦しみは目前の飯を食おうとすれば飯の上に火の燃えるたぐいである。
しかし人生の与える苦しみは不幸にもそれほど単純ではない。目前の飯を食おうとすれば、火の燃えることもあると同時に、又存外楽楽と食い得ることもあるのである。のみならず楽楽と食い得た後さえ、
腸加太児 の起こることもあると同時に、又存外楽楽と消化し得ることもあるのである。こう云う無法則の世界に順応するのは何びとにも容易に出来るものではない。もし地獄に落ちたとすれば、わたしは必ず咄嗟の間に餓鬼道の飯も掠め得るであろう。況や針の山や血の池などは二三年其処に住み慣れさえすれば格別跋渉の苦しみを感じないようになってしまう筈である。
芥川龍之介『侏儒の言葉』(太字は引用者)
この項目をすべて読めばなぜ、芥川が厭世的だったか読み取れます。
私の解釈を言えば「人生には希望があるから、絶望がある。」という事であると感じます。
パンがあるから食べたくなるのだ。
パンを食べられるかもしれないという気持ちが、余計に空腹の苦しみを増幅させる。
逆にどう足掻いても絶対に空腹を満たすことができないという状況であれば、空腹であっても諦めがつき、心が平穏になる。
みんなそろって飢餓であれば、それは当たり前となってしまう。
絶望の渦中にいても、もっと良い状態を知らなければ、その状況は絶望ではなくなるのではないか。
希望を常に見せられるということは、自分の絶望的状況を常に意識させられるのに通じる。
最初から地獄の針の山の上に生まれて、他の場所を知らずに生きれば、針の山もまた苦しいものではなく、当たり前のものになってしまう。
希望があるから、この世は地獄的なのだ。
そう言っているように感じられます。
では、地獄を引き立たせている希望とは、何なのか。
芥川はこの希望を2つの物に見出していると感じます。
他人の幸福と自分の欲望です。
他人の幸福
他人の幸福を目の当たりにすることは自分の不幸を意識させる。
すなわち嫉妬心を持つことが絶望である。
自分の幸せを誰かと比べた相対的なものと捉え、自分より幸福な人を見て、嫉妬するのは辛い。
芥川は嫉妬深かったに違いない。
なぜならこの侏儒の言葉には嫉妬と言う言葉が何度も出てくるからだ。
誰かが裕福に生活しているというのを目の当たりにするのは、自分の生活が貧しい事を意識させる。
地獄でみんなそろって飢餓状態なら、逆に絶望しない。
しかし、現実には格差がある。
裕福な人や、能力に恵まれた人もいれば、そうでない人もいる。
その不条理こそが、地獄的と言っているのかもしれない。
楽楽と食い得た後さえ、
腸加太児 の起こることもあると同時に、又存外楽楽と消化し得ることもある
飯を食った後に病気になる人もいればならない人もいる。
こんなのは不平等だ、不条理だ。と言っているように感じます。
自分の欲望
自分の欲望を感じる事で、それが叶えられない現実の苦しみが引き立つ。
これに関しては侏儒の言葉から別の部分を引用したい。
「天国の民」という一文である。芥川の考える地獄を考察するのであれば、芥川の考える天国を読むのが早い。
天国の民
天国の民は何よりも先に胃袋や生殖器を持っていない筈である。
芥川龍之介『侏儒の言葉』
端的に天国の民は生殖器や胃袋がないと言っている。
胃袋と生殖器とはもちろん食欲、性欲の象徴であろう。
美味いものを食べられるかもしれない。美人と付き合えるかもしれない。という欲望が希望となり、逆に、満足に食べられない、女が得られないという状況に絶望する。
つまり、欲望を持つということは、苦痛なのだと言っているように感じる。
欲望と希望はどちらも望む。という字が入っている。
欲望と希望、何が違うのだろうか。私にはかなり近いものに感じられる。
芥川龍之介の私生活
現実の芥川は一度懇意になった女性と結婚まで考えたが破局している。
「好きな人と結婚できるかもしれない」という、希望を目の前して、 それが得られなかった。
つまり、俗な言い方をすれば、こんなに辛い思いをするのなら、最初から出会わなければ良かった。という事になるかもしれない。
希望がなければ絶望もないとはそういうことなのかもしれない。
まとめ
希望と欲望が存在するから、この世は地獄よりも地獄的。
希望が最初からない地獄の方がこの世よりマシ。
人生が、上手く行くか行かないかわからない不安定さ。
他人の成功を見せつけられる絶望。
自分の欲望が満たされそうで、満たされない地獄。
地獄にはこんな辛さはない。
地獄は、希望を見せないゆえに絶望がない。
余談ですが、私はアノミー的自殺というのを思い出しました。
経済の危機や急成長などで人々の欲望が無制限に高まるとき、欲求と価値の攪乱状態が起こり、そこに起こる葛藤をアノミーとしている。
出典wikipedia アノミー – Wikipedia
理想を高く見てしまったがゆえに、現実とのギャップに絶望して自殺するというものです。
このような事は生きるか死ぬかで必死に生きている発展途上の国などでは起こらないことであろうと思います。
生きることすら絶望的な状況では、人は絶望せずに懸命に生きようとし、逆になんでも出来るような状況に置かれた人間は欲望が肥大化しすぎて、現実とのギャップに耐えられなくなってしまう。
なんとも皮肉なものですね。
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