メメント・モリの意味
メメント・モリはラテン語でいろいろな訳がある。
死を想え。
死を忘れるな。
しかし、一番私が気に入っているのは
自分がいつか必ず死ぬことを忘れるな。
である。
私が大学生の頃「死」をテーマにした授業があった。「死生学」というものだ。
そこで、「死」には3種類ある。という事を学んだ。
- 関係ない第三者(He,She)の死。三人称の死
- 知っている人、あなた(You)の死。二人称の死
- そして、自分( I )の死。一人称の死
メメント・モリが一番言いたいのは、もちろん自分の死、一人称の死、だろう。
この3種類のうち、自分の死だけが、異彩を放っている。
他の人が死んでも、自分の人生は続くが、自分が死んだら、そこで終わりである。
当たり前だけど。
当たり前だけど、やっぱり、この違いは大きい。
誰かが死んでも、自分の感覚は変わらない。 自分が死ぬと自分の世界は終わる。
私は、死についてこれ以上書くことはできない。
人類にとって、「死」とは未知すぎて、とても、記述できるような代物ではない。
それどころか、「死」について思考することすら、ままならない。
私とメメント・モリ
生きる事を思う事は、いつか死ぬことを思う事。
私が、メメント・モリという考え方に出会ったのはいつだったか。
哲学者の中島義道さんは、幼少から「いつか自分が死んでしまう事」について考えていたそうだ。その話を読んだときだったか。
スティーブジョブスの演説をyoutubeで見たときだったか。あの演説はまさに、自分がいつか死ぬことを忘れず、自分の心の声に正直に生きろという内容だった。
私は死に関するいろいろな本を読んだ。「生きる」という事を思うとき、必ず「いつか死んでしまうという事実」はつきまとう。
いや、もっと前だった。
メメント・モリという言葉を知る以前から、私が死の存在を知ったときから、「私もいつか死んでしまうのではないか?」と最初に思ったときから、私は自分の死を思わなかった日はなかった。
小さいときから死にたいと思ったことももちろんある。
それは、生きるのが辛いからだったり、死に対する興味だったりした。
もちろん、死にたくないと思った事も多くあった。
それは、死に至る苦痛を回避したいからだったり、生きる事への執着だったりした。
とにかく、私は、幼少期から「死」に興味があった。
「死」はなんだ?「死」という事象は私を惹きつけた。
メメント・モリという言葉を知る前から、私は「自分が死ぬ。」とはなんだ?どういうことだ?という事を考え続けてきた。
メメント・モリの効能
私は常々こう思っている。
やらずに後悔するよりは、やって後悔する人生を歩みたい。
過去の失敗にくよくよしないように生きたい。
人の目を気にせず生きたい。
自分の心の声に素直に生きたい。
しかし、なかなか難しい。
いや本当に難しい。
そんなとき、後押ししてくれる。勇気をくれるのが
「メメント・モリ」という言葉だ。
死を思うことによって、過去の失敗がどうでも良くなってくる。
死を思うことによって、人の目がどうでも良くなってくる。
死を思うことによって、自分の心の声に素直に生きたくなってくる。
もっと、やって後悔したい。
もっと、失敗したい。
もっと、人目を気にせず生きたい。
もっと、自分の心に素直に生きたい。
だから私はメメント・モリを忘れない。
人生の恥はかき捨て
旅の恥はかき捨て。という言葉がある。
旅の恥はかき捨てとは、旅先には、知ってる人もいないし、二度と来ないかもしれないから、普段ならしないような、恥ずかしい事も出来てしまう。恥もその場限りのものである。という意味。
これ人生も同じなのではないか。と思います。
この世は、一度生まれて死んだら、もう二度と来ることもない。
自分として、生きて、死ぬのはたった1回。人生は1度きり。
であれば、人生の恥はかき捨てなのかもしれない。
所詮、恥も、人生1回限りのもの。
だからなんだってできるのかもしれない。
恥ずかしい事だろうが、失敗だろうが。
人生の恥はかきすてなんだから。
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