祖母を自宅で看取った。

体験談
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書こうか迷ったけど、書こうと思います。

 

おれはおばあちゃん子なのですが、先日89歳で亡くなりました。

 

コチラがうちの簡略化した家系図です。

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入院~退院

祖母は去年2019年の暮れから体調を崩し入院していた。

帯状疱疹というウイルス性のものにかかったからだ。

祖母は2020年の元旦は病院で家族と離れた状態で迎えた。

そして、1月の末に退院して自宅に戻ってきた。

病院にいるときから、父、叔母1、叔母2が足繁く通ってご飯を食べさせたり介護していた。

自宅に帰って来てからも、毎日、ご飯を食べさせてあげた。

しかし、食欲もあまりないようで、だんだん痩せて行く。

 

2月6日(木曜)受診

祖母を病院に連れていく。

経過はかんばしくなく、入院するか、帰宅するかを迫られる。

それはつまり、病院で亡くなるか、自宅で亡くなるかという選択を意味していた。

 

父と叔母1、叔母2が話し合って、自宅に連れて帰ることに決めた。(ここにもいろいろ葛藤があったようだが、おれにはわからないので書きません)

入院ではなく、自宅で療養する場合、自宅での看取りまで対応してくれる医師が必要でした。

担当となった医師がうちに来て、祖母を診察しました。

 

余命宣告

看取りまで対応してくれる医師は、なんと女医さんで、おれはその場にいなかったので、伝聞になるのだけれども、非常にはつらつとした元気の良い人だったらしい。

 

「はっきりと言いますと長くとも5日くらいだと思います。今夜亡くなってもおかしくないです。」

 

父も叔母も突然の宣告に驚いたらしい。

病院の医師は、余命についてはなんとも言わなかったからだ。

 

「会わせたい人がいたら、会わせておいたほうが良いと思います。」

 

おれは、その医師と直接会って話してはいないのですが、今回、祖母と悔いのない別れをできたのは、この人のおかげだったと思います。

その日のうちに、親戚中に電話を掛けて、夜までに来れる人が集まった。

皆、ベッドのそばに寄り添って思い思いに声をかけた。

 

ばあさんを見ると、本当に今にも呼吸が止まりそうなほど、苦しそうだった。

おれの見た感じでは、本当に明日まで持たないかもしれないと思うほどだった。(結果的にはここから3日間生きていた)

 

その日、親戚はいっぱい来たけれども、おれは、兄と妹に会わせたかった。

おれが生まれた家で、ばあちゃんと一緒に生活したのは、父、母、兄、おれ、妹の5人で、おれの家族は6人家族なのだという認識でずっと生きてきたからだ。

 

しかしその日は木曜で、次の日は金曜だった。

兄も妹も実家から出て東京で働いている。

 

兄に連絡すると「仕事があって帰れないから土曜には帰る。」ということだった。

おれは、それを聞いて何を悠長なことを言ってるんだ・・・後悔するかもしれないぞと思った。

 

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最後に会えなかったら兄が後悔するかもしれないと思ったし、兄に会わせられなかったと思っておれが後悔するかもしれないとも思った。

 

そう思っておれは兄に電話をかけた。

 

兄「話はもう聞いた。電話されても困るで・・・土曜に帰るよ。」

おれ「いや、ばあちゃんに兄貴の声だけでも聞かせてやろうと思って。」

 

スピーカーにして、ばあさんに兄の声を聞かせた。

 

兄「おれだよ。わかる?」

 

ばあさんは兄の声を聞いて、あきらかに反応を示していた。

孫の声を聞いて、最後の力を振り絞って話すばあさんを見て、涙が出てきた。

 

おれは「ばあちゃんと話してくれてありがとう。」と兄に言った。

 

兄は「おれの方こそありがとう。おれ帰るわ。」と言った。

 

ばあさんの声を聞いて、兄は仕事を休みにして帰ることにしたらしい。

妹も特急に乗って帰ってくる。

 

兄と妹は午前3時頃にうちについた。

余命を宣告された日の深夜(つまり翌日の)午前3時に、家族6人で対面することができた。

 

最後の3日間

それからの3日間、だんだん弱っていくばあさんを身近で見た。

金曜の午前3時、兄と妹が到着し、家族6人で対面したが、流石に眠さもあったので、おれ、妹、兄は寝て、父、叔母1、叔母2、母が交代で介護した。

ばあさんは昼も夜もなく、常に寝てるような起きてるような状態で突然苦しんだり、呼吸が荒くなったりしていたので、みんなで飲み物を飲ませたり、寝返りをうたせてあげたり、背中を擦ってあげたりした。

 

おれは実家近く(1分以内)のアパートに住んでいるので、アパートに帰って寝た。

「何かあったら電話するから」と叔母に言われていた。

おれは電話が鳴るような気がして、寝付けなかった。

 

金曜朝、ばあさんの様子を見に行くと、まだ生きていた。

父、叔母1、叔母2はばあさんの部屋に布団をひいて寝ていた。

 

おれ「ばあさん。おれ仕事行ってくるよ」

そう言って、仕事に行った。

 

仕事から帰ってくると、そのままばあさんの部屋に直行して、ただいまと言った。

 

木曜の夜来た親戚の人たちが金曜日もまた会いに来たりしてくれた。

その夜もまた、おれは電話が来るのではないかと気がかりだったが、半分諦めて寝た。

 

今亡くなるなら仕方がない。

できることが何もなかった。

人が死ぬのを止めることはできないのだと、痛烈に感じた。

しかし、その日も電話は来なかった。

 

土曜日の朝、会いに行くとまだ生きていたが弱っていた。

死期が迫っていたが、父、叔母1、叔母2が気丈に振る舞っていたため、あんまりしんみりした空気ではなかった。

ギャグを言ったり「お迎え来たか?」とかブラックジョークを言ったり、みんなで写真を撮ったりした。

平日に来れなかった親戚も土曜に会いに来た。

 

その日もばあさんは乗り切った。

おれは、この日も電話が来るか来ないか、気になってはいたが、寝ることができた。

 

ばあさんに会わせたい人は全員会いに来た。

もう今夜亡くなっても仕方がない、後悔がないと思った。

その日も電話は来なかった。

 

最後の日

窓を空けて日光を当ててやる。

2月。外は非常に寒いが、日差しを受けると少し暖かく感じる。

部屋は暖房をフルパワーでつけていたので、寒くなかった。

 

手を握ってやる。

 

ばあさんの手は、親指以外の指が紫色になり、手をにぎると指先は冷たくなっていた。

たまに目をかすかに開ける。

 

おれ「おれだよ!◯◯だよ!」

ばあさんは「おう・・・わかるよ・・・」っと言った。

涙が出てきた。

 

だんだん弱ってはいたが、看る方も休まなければ身が持たない。

夜は徒歩1分のアパートに帰って寝た。

 

亡くなる人は、夜亡くなることが多いらしい。

ばあさんの状況では、夜も昼もないような状態に見えたが、人間は不思議なもんだ。

 

午前1時に電話が鳴る。妹から。

「ちょっと来たほうが良いかもしれない。」

 

靴を履いてダッシュで向かう。

父、母、兄夫婦、兄の息子(1歳)、妹、叔母1、叔母2が集まっていた。

ばあさんの呼吸は浅く、荒くなっている。

目はかすかに開いている。

みんな代わる代わる、ばあさんの目の前にいって声をかけた。

 

おれは「ありがとう」なんて言葉は言わなかった。

ただ「ばあちゃん。米をといどけ」と言った。

これがおれとばあちゃんの別れの言葉になった。(ちょっとこの言葉については説明が難しいので割愛します)

 

叔母2が言った「またコスモス見に行こうね」という言葉を聞いてまた泣けてしまった。

 

一通り声を掛けたらばあさんの息は安定し、寝始めた。

おれたちも寝ようということになり、父、母、叔母1、叔母2を残しておれたちは寝た。

 

そして、午前3時に再び電話が鳴った。今度は父から。

「おばあさんね、さっき息止まった。」

急いで駆けつけると、まだあたたかいばあさんがいた。

 

通夜~火葬~葬式

葬儀はつつがなく執り行われました。

以前こんなことを書いたのですが

 

構造が失われるその時こそ、私達は生命の終わりを心で感じ、そして、目の前で起こる生命の終わりは、生きている私達に衝撃を与える。

生きている状態と、死んでいる状態の違いは何か。私的考察。【ひよこミキサー】 – キリンノックスのブログ

 

やはり、火葬の前までは、まだ、ばあちゃんはそこにいるような気がした。

息はしていないが、そこにいる。

しかし、火葬によって本当に別れなのだと、本能が感じた。

 

火葬場の炉の扉がコチラとアチラを隔てる厚い壁に見えた。

その扉が閉じたとき、叔母1、叔母2も涙を流していたので背中をさすってやったら、なんだかおれにも悲しみが伝わってきて、おれも泣いた。

それ以降は淡々と進んだが、葬式の最後、スライドショーが流れて、流石に涙が止まらなかった。

 

以下余談。

 

実利的な感情

ばあさんが亡くなるまで、介護して、みんなで暖かく看取ったわけだが、おれの脳みその中にはドライな側面もあったことを書いておきたい。

 

土曜に亡くなったら、日曜に通夜で、月曜に葬式かな?

月曜の仕事を休まなければいけないか?

 

誰に連絡すれば良いんだろう。

 

日曜に亡くなったら、月曜に通夜で火曜に葬式かな?

 

などと日程を脳内で考えていた。

 

不謹慎だが、火曜が祝日だから、火曜に葬式だと調子がいいなぁ。とか思っていた。

 

仕方がないのかもしれない。

生きている人は働いて、お金を稼がなければ生きていけない。

ばあさんの人生は終わるが、おれの人生は続く。

おれの脳みその中には、祖母とのお別れや思い出というエモーショナルな感情と、通夜、葬式の日程や仕事は何日休めるのかと計算するドライな感情が共存していた。

 

死について

大学の死生学の講義で死には3種類あると習った。

  • 一人称(I)の死
  • 二人称(YOU)の死
  • 三人称(HE、SHE)の死

しかし、今のおれの考えで言えば、死は2種類しかないように思う。

自分の死か、自分以外の死だ。

おばあさんにとってのおばあさんの死は一大事だ。

自分の意識が消えてしまう。

 

しかし、おれにとってはおばあさんの死だけでなく、おれ以外の人の死はどこまでもひとごとであるのだ。

自分以外の誰が死んでも、おれの人生は続いていく。

だから、おばあさんの死が差し迫っても、実利的な思考が出てきてしまうし、死を客観視することしかできない。

今回の出来事は、自分の死と自分以外の死は決定的に違うのだと思い知らされる出来事だった。

 

死因=老衰

死亡診断書に書かれた死因は老衰だった。

天寿を全うしたということで良かったと思った。

 

線香を立てる気持ち

おれは生まれてから一緒に生活していた家族が亡くなったのは初めてだったのだけれど、線香を立てる気持ちがわかったような気がした。

故人に対してできる事は何もない。

なにかしてやりたくても、線香に火をつけるくらいしかできない。

母方の祖母がこんなことを言っていた。

「骨壷をさすってもしょうがないから、生きてるうちに背中さすってあげろ」

 

葬式の写真

葬式中、写真を撮った。(葬儀中の撮影マナーについてはよく知りません)

棺桶の写真まで撮った。

撮ったはいいけれども、撮るべきだったのかはわからない。

おれの高校のときの担任の言葉を思い出す。

「人は親の死を忘れられるように、忘れる能力が備わっているんだよ。」

記録媒体が発達した時代で、人は忘れることが難しくなっている気がしないでもない。

 

長生きの効用

長生きしてくれるのは、周りの人にとってありがたいことなのかな。と思った。

おれの祖父はおれが小学生の時に急死した。

そのときの、周りの悲しみと、今回の葬儀を比べて、長生きをして、最後のお別れをしてから亡くなると、周りの悲しみも幾分やわらぐような気がした。

 

おわり

 

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