はてなブログのお題 「迷い」と「決断」 について書きたいと思います。
迷いが生じた時点で、心はもう決まっている
私の経験では、そもそも、迷いが生まれた時、自分の心の中ではどうしたいか、本当にやりたい事はどちらなのか、もう決まっている事が多い。
例えば、「今の仕事を辞めるか、辞めないか。」という迷いが生じたとき、あきらかに、自分の中に「辞めたい」という気持ちがある筈である。
「何かを買うか、買わないか。」迷っている時点で、「その物体が欲しい」という気持ちがあるはずである。
「今の彼氏と別れたほうが良いかな?」と相談して来た女性は、心の中には、もう「別れたい。」という意思がしっかりと存在している。
「あの女の子に声を掛けるか、掛けないか。」迷っている時点で、「声を掛けたい」という気持ちがあるはずである。
自分の心の中に、「◯◯したい」という思いがなければ、そもそも、その迷い自体が生まれないのではないか。
声を掛けようか、悩んだ時点で声を掛けたいのだ。
では、なぜ、行動に踏み切れないか。
私自身の経験では、人目を気にしていたり、選択に自信がなかったり、自分に自信がなかったり、勇気がなかったり。が理由だった。
迷っている時、自分の心の中ではどちらが正解なのか、もう結論は出ているのに、人目を気にする事や、自信のなさによって踏み切れない。
これが決断できないということなのではないか。
つまり、迷いとは勇気を持てないから起こる。
迷ったとき、既に答えは出ている。
必要なのは、どちらが良いか、比較する脳みそでなくて、自分が信じた方へ一歩踏み出す勇気なのではないかと思う。
迷っている時の方が辛い
「案ずるより産むが易し」ということわざがあります。
人間って、困難なことでも、その事柄と相対して戦ってるときは、意外と踏ん張れるものです。
私は、人生において、迷っているときが一番辛かったような気がしています。
恋人と上手くいっていないときはとても悩んでいました。
しかし、いざ破局してしまったら、逆に気分がスッキリしたこともあった。
進学で、どの大学に行くか・・・悩んでいたときは辛かったけども、志望校が決定してからは、受験で辛い事はなかった。
人間というのは、不確定要素に苦しむような気がするのです。
とにかく、嫌なことでも、確定しているなら、乗り切るしか無いと開き直ってがんばれます。覚悟を持てる訳です。
しかし、踏み込むか、引き下がるか。迷っているときは、困難と相対しているときよりも数倍、精神的に苦しむ。そんな気がしてなりません。
「迷う」という事は「どちらも可能」だということ
以前、面倒くさい事は「自分にできる可能なこと」という事を書きました。
迷いは自分に可能な選択肢の中で生まれると思います。
例えば、私は現在28歳ですが、「サッカー選手になりたいけどどうしよう。」とか「将棋のプロ棋士になりたいけどどうしよう。」という考えは微塵も生まれません。
不可能に近いからです。
つまり、迷う時点で、その選択肢には可能性がある。
例えば、仕事をやめようか・・・と悩んでいる場合「辞める人生」「辞めない人生」もどちらも物理的には可能という状況だと思うのです。
迷うという事は、将来に対して選択肢の幅があるということでもあるので、悪い側面だけではなく、ポジティブにも捉えられると思います。
どちらかを選ぶ。という事は、どちらかを諦めるという事
「迷い」と「決断」というテーマは2つのテーマに見えますが、実は、1つのテーマだと思います。
選択肢が1つしかなければ人は迷いません。
2つ以上あるからこそ、迷い。そして、決断が必要になる。
どちらかを選ぶというのは、どちらかを諦めるということです。
諦めるのが難しいから、迷っている訳です。
しかし、人生は一本道です。人は、1人分の人生しか歩めません。
同時に2箇所に存在することはできない。
迷った時、必要なのは諦めることです。
どちらかを選ばなくても、結局は失います。
ずっと迷っていると、両方の選択肢を失う事だってあります。
迷えば迷うほど、まず時間を失い、迷っているうちに若さを失い、迷っているうちに人生を失います。
失わないためには、なるべく早い決断が必要です。
片方を諦めなければ、片方を得ることはできない。
羽生善治九段の「決断力」
「迷い」と「決断」というテーマだったらこの本の紹介ははずせない!
将棋の棋士ほど、毎日決断を繰り返している人もいないだろうと思います。
そんな、棋士のトップで活躍してきた、羽生さんの名著です。
将棋を知らない人にも心に刺さる決断の真髄。
というわけで、少し引用させてください。
一時間以上考えているときは、考えるというよりも迷っている。
羽生善治『決断力』(太字は引用者)
「考えるというよりも迷っている。」
考えるのと迷うのは少し違うようです。
私はこれについて考えた。
例えば、2つの選択肢があって、どちらが良いかを、合理的に比較している時、それは「考えている」のだと思う。
そして、合理的比較であれば、必ず答えが出るはずだ。
Aの方が性能が良い、Aの方が見た目が良い、Bの方が安い。という風に1つ1つの項目を比較していけば、答えは出てくる。
しかし、それに感情が入りこんだとき、考えは迷いに変わるように思う。
「これ欲しいけど、買ったらなんて言われるかな・・・」
「挑戦したいけど、失敗したらどう思われるか・・・」
「無理かもしれない・・・怖い・・・」
最初にも書きましたが、本当は、欲しかったり、挑戦したかったりするのだが、人目を気にしたり、自信がないのが理由で踏み切れない。
これが「迷っている」ということなのではないか。と思います。
長考するときは、結局、どうやってもうまくいかないという連続で、迷うだけというケースが非常に多い。最後には、「どうにでもなれ!」という心境で決断することも結構ある。
羽生善治『決断力』(太字は引用者)
前述のように、私は、困難に立ち向かっているときよりも、迷っている時の方が辛い、そして、迷っている時間が長いほど、どんどんいろいろな物を失っていく。
実は、迷った時というのは、「どちらを選ぶか」という事よりも、「どちらでも良いからすばやく決断する。」という事の方が重要な場合もあるのではないか。
「どうにでもなれ!」という思い切りも、人生には必要なのかもしれない。
決断は、怖くても前に進もうという勇気が試される
決断は自分の中にある
羽生善治『決断力』(太字は引用者)
決断は勇気。
迷い始めた時点で、最初から答えは心の中にあることが多い。
決断して一歩踏み出すために必要なのは、自分の心の声に従う勇気。
決断は自分の中にある。
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