「物を大切にしなさい。」「友達を大切にしなさい。」
そう教わってきた。
私は大学で、ある友人に出会って、カルチャーショックを受ける。
こういう経験はちょくちょくある。
これは、私が幼い頃は良い子ちゃんで、教育を鵜呑みにしてきたからだろう。
教育に反発しながら自分のやりたいように、伸び伸びと、教師などに怒られながら育った人もいるのだと知る。(私は、ほとんど怒られたことがない)
教育によって、教わった「正しい考え」ではない、別の考えを持つ人もいるのだと。
私は思い知らされてきた。
友人K
そいつは、なぜか、物を大事にしなかった。
落っことす、ぶっ壊す、ぶん投げる。
なぜか、わからなかった。
なぜ、1秒前まで使っていた携帯を、唐突にアスファルトに投げつけているんだろう?
なぜ、高価なギターをぶん回して遊んでいるのだろう。
なぜ、ギターをライブでへし折っているのだろう。
壊れてもヘラヘラしているし、なんなら、常に、ヘラヘラしていた。
そいつは、物を、叩いて、ぶん投げて、へし折って、燃やしていた。
狂気を感じた。
まぁ実際、狂気の人物だったのだけど。
このような人物に出会うと、自分の価値観が変化するのを感じる。
いや、変化というより、崩壊だ。
「物を大切にしなさい。」それに盲目的にしたがって、理由も考えないまま物を大切にしていた自分に気付いた。
人は、気付かない事には気付けないのだ。
気付かないことにすら気付いてないんだからね。
ドラムの席に座っていた私は、手に持っていたガラケーでチャイナシンバルを連打した。
良い音がした。(気がした。)(ガラケーは傷だらけになった)
物を大切にするよりも大切にすべき事がある
ほとんどの物は道具だ。
道具は、使うものだ。
重要なのは、その道具を使って何をするかだった。
私は、小学校の頃。それはそれは、良い子ちゃんだった。(今もだよ)
美術の時間。
パレットを綺麗に使っていた。
右端から、絵の具を、使う量だけだし、右上で混ぜ、次の色はその隣に置き・・・
私のパレットはそれはそれは、綺麗だったが、私の絵は、勢いがなく、なんの情熱もない、つまらないものだった。
パレットと絵の具は道具であるはずだ。
重要なのは、パレットの見た目が綺麗か、ではなくて、絵がどんな絵か。だった。
習字も全く同じだった。
筆と硯を綺麗に使った。必要な量だけ墨汁を出し、まわりに飛ばないように、汚さないように、使った。
私の硯はそれはそれは、綺麗だったが、私の書いた字は勢いがなく、なんの情熱もない、つまらないものだった。
おもちゃで遊ぶなら、おもちゃを壊すか壊さないか。ではなく、楽しいかどうかだ。
楽器を弾くなら、楽器が綺麗かどうか、ではなく、どんな音を出すかだ。
ペンで書くなら、何を書くかだ。
本を読むなら、その本から、自分が何を得るかだ。
物を大切にするあまり、本質を履き違えてはいけない。
以前、私は、「勿体なくて使えない」などとよく言っていた。
道具は使わなければ本来の価値は発揮できない。
私は物を大切にしなくなった
ぶっ壊れても、なくなっても、まぁいっか。と思うようになった。
本を読んでいた私は、本が厚くて読みにくいな・・・そう思い、本を真っ二つにした。(カバーは捨てた)
薄くなり、読みやすくなった。
結婚指輪がなくなったときも、気にも止めない。
形あるものいずれ壊れる。(なくなる)
形の無いものに、価値がある場合もあることに気付いた。
物を大切にしない人は人間関係も大切にしない?
「物を大切にしない人は人間関係も大切にしない。」というセンテンスをネットで目にした。
これを聞いてどう思うだろうか。
「そんな事に因果関係はない。」と思うだろうか。
「たしかにそうだ。やっぱり物を大切にした方が良いな。」と思うだろうか。
今の私にならこう思える。
人間関係を大切にしないで、何が悪いのか。
「人間関係を大切にしなきゃいけない。」とかいうのがそもそも思い込みでは?
「人間関係を大切にしなければいけない。」という、枠組みにとらわれていると、そもそもの前提に疑問を抱かない。
もちろん、大切にしたい友人は大切にすれば良いが、闇雲に「人間関係を大切にしなくてはいけない」と思い込むと、窮屈だ。
人間関係なんて別にぶっ壊れても構わないと思う。
「闇雲に、手当たり次第に、大事にしようとした人間関係」より、「この人との関係は大事にしたい。」そう思った人間関係を大切にすべきだと思う。
おれは、物も人間関係もぶっ壊しながら生きていこうと思うよ。
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