「不登校は不幸じゃない」「学校には行かない!行きたいときだけ行く」と宣言し、日々やりたいことに邁進している、Youtuberのゆたぼん君。
ゆたぼん君の学校に行かない宣言や生き様に関して、賛否両論が巻き起こっている。
いろいろな人がいろいろな事を言っている。
私も、そのいろいろな人の一人だ。
私は、元不登校で、現在、教育関係の仕事に就いている。
そんな私は「不登校」という事象についてめちゃくちゃ興味があって、20年間「不登校」について考えてきた。
そんな私の一個人の意見として、拙い考えではあるけれども、この記事を書こうと思った。
行かないのは義務教育に違反している?
私は、法律の専門家ではないので、詳しい事は言えませんが、wikipediaにはこのように記述があります。
義務教育という言葉の響きから、在学者の不登校を違法なものだと考える人もまだ多いが、上記のように就学義務は保護者などの義務であり、当事者の義務ではないとされている(当事者にとっては教育を受ける権利である)。こういった制度であるため、本人が自由意志で欠席を選択するのであれば、本人・保護者ともなんら罰則は課されない。
義務教育は当事者にとっては、教育を受ける権利であるそう。
義務は、親や国に「子供に教育を受けさせる環境を与える」義務があるのであって、最終的にその用意された教育を受けるかどうかは、当事者に委ねられている。
というわけで、「おれは学校に行かない!」という選択は、法律的には咎められる要素は無さそうに見えます。
私は不登校容認派です。
行きたくなかったら行かなければ良い。と思います。
本当に心の底から、行きたくないのに、無理して学校に行って、得られるメリットは少ないと思う。
嫌な事に耐える忍耐力を鍛えるために学校に行くわけではないでしょう。
「小学校の宿題程度に耐えられなければ、そのあと社会に出てやっていけない」って?
嫌な小学校に耐え、嫌な中学校に耐え、嫌な高校生活に耐え、嫌な大学生活に耐え、忍耐力を鍛えた結果。
嫌な会社に耐えに耐えまくって70歳で定年して、そして死ぬ。
それが良い人生なんでしょうか。
耐えない人生を生きる可能性に賭けて、そっちに飛び乗る。
もし、失敗してたとしても、挑戦した人生。
耐えに耐えまくった人生より、挑戦した人生の方が良いと個人的には思います。
そして、多分。ゆたぼん君は上手く行く可能性が高い人間だと思います。(個人的推測)
逆に耐えに耐えまくった人生の方が後悔すると思う。
「学校行かないと後悔するかもしれんぞ。」と批判する人達は
「なぜ、あのとき、学校に行くのを辞めなかったんだろう。」という重大な後悔の可能性を考えていない。
ゆたぼん君の「漢字はググればいい。計算は電卓使う。学校で勉強する必要が無い」という発言について。
最近はこの発言に関しての批判が巻き起こっています。
勉強という行為自体を蔑んでいるように聞こえるから、批判者が多いのでしょう。
これは、「勉強はするべきなのか。」という議論と「テクノロジーが発達した時代の勉強の意義」という議論がごっちゃになっているから、みんな批判したり、賛成したり、ぐちゃぐちゃになっているのだと思う・・・・
もっと言うと、後述するが、「勉強しない」と「不登校」はもはや別問題であると私は思う。
- 「勉強そのものの意義」
- 「テクノロジーが発達した時代の勉強の意義」
- 「不登校の子の学力と学歴」
は分けて考える必要があるのではないか。
「勉強そのものの意義」
勉強の意義を考える場合。個人規模の視点と人類規模のマクロな視点での両方が必要であると思う。
個人の視点で見た勉強の意義
「勉強なんてしない」という考えもありだと私は思う。
勉強しなければ、進学が難しい。進学が難しければ、就職に不利になるだけだ。
良いも悪いもない。
「勉強しないという選択」は「学力が必要な場面で不利」という事実があるだけだ。
時代は変化し、勉強 → 進学 → 就職のみが生きていく道では無くなっている。
たとえ数学が出来なくても、センスでYoutubeに投稿して稼ぐ事ができる時代。
会社に就職しなくても、ネットで個人的にビジネスをして、稼ぐ事ができる時代。
嫌嫌ながら勉強する利点が昔に比べて減っている気がする。
もちろん、勉強好きな人が勉強する事に関してはメリットは大きいとは思うが。
人類規模で見た勉強の意義
「人間とは教育されねばならない唯一の被造物である。」
「人間は教育によってはじめて人間になることができる。」
とカントは言った。
哲学素人の私、個人的には、道徳や倫理的に、良いも悪いも、存在しないと思う。
ただ、DNAに、「個の保存」と「種の保存」に対する好意が練り込まれているから、人類の存続に貢献する内容には「快」を覚え、人類の存続に貢献しない内容に「不快」を覚え、それを道徳と呼んでいるように思えてならない。
人類規模で見れば、若齢の人間は教育した方が、人類の存続に有利であろう。
だから、「全員教育を受けて一定以上の学力を得るべきだ」という考え方が出てきたのではないか。と考察する。
児童、青年の教育が「人類の存続」に貢献するのではないか。という事は私もわかるが、それが倫理的に正しいかは、私にはわからない。
「テクノロジーが発達した現代の勉強の意義」
これは、もはや、「不登校」は関係ないかもしれない。
- Excelでやる事を手計算でやる意味はあるのか?
- スマホの使いすぎで漢字が書けなくなっても良いのか?
- ネットに載っている知識を全て暗記する必要はあるのか?
これからの時代は、暗記や詰め込みよりも、もともとある情報をどのように、整理、活用していくか。という意味での学力が問われる時代が来る可能性がある。
漢字については、これから、手書きの物はどんどん減っていって、デジタル化が進むだろう。
その時代に漢字をスラスラ書ける能力は重要か。と言われると難しい。
今の大人だって、パソコンとスマホの使いすぎで漢字忘れてるじゃん。(おれですw)
ちなみに、世界一学力が高いフィンランドでは九九をやらずに電卓を使っているらしい。
九九を覚えず、電卓を使っても学力は落ちない。
その計算作業の分を方法論に当てているからだと思う。
漢字はググるという発想もアリな時代が来るかもしれない。
変わるべきは、「漢字は覚えなければいけない」という発想のほうかもしれません。
「不登校の子の学力と学歴」
不登校=勉強しない。みたいに語られているのは、違和感がある・・・
もはや、私に言わせれば、不登校と学力は関係がない。
「不登校」と「勉強しなくて良いか」は切り分けて考える必要があると考えている。
私は、義務教育に4年以上行っていなかったが、勉強は得意だ。(社会不適合だけどねw)
学校に行かなくても(学力をつける意味での)勉強をする事はできる。
逆に学校行っていても勉強しないやつなんて山程いる!
別に、批判しているわけじゃないですよw
不登校に対して「勉強しないと、バカな大人になる」というのは、少しズレた批判しているように思えてならない。
さらには「義務教育不登校」=「学歴がない」とならない場合もある。
小中高に行かずとも、高校卒業程度認定試験を受けて、大学に行けば、最終学歴大卒だ。
つまり、「学校行かないなんて、学歴がなければ将来潰しがきかんぞ」という批判も、議論の中心ではないように思う。
大卒ニートだっているぞ!(一時期のおれのことだがw)
Youtuberとして見ると上手い。
今やYoutubeで億稼げる時代。
小学生のyoutuberが◯千万稼ぐ可能性のある時代だ。
彼を不登校児ではなくて、Youtuberとして見るなら。
うまいな!と。
「学校に行くな!ロボットになるな!」
と言われたら。賛成派、反対派ともに、ひとこと言いたくなるw
そして、なぜかちょっと、「不登校のくせに偉そう」に見えてしまうから、ひとこと言いたい人が続出するのだろう。
結果、知名度が上がる。
おれのブログもゆたぼんさんを見習わないとなぁw
おれはただの元不登校の弱小ブロガーなので、炎上怖いし、太刀打ちできません。
彼の他者に影響を与えるパワーは純粋に尊敬します。
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