私も人の事言えないかもしれないが、タイトルの通りだ。
前にも書いたが、この問題の根っこは深いぞ・・・
今回は主に原因を考察したいと思います。
利益重視のサイトが増えた。
以前は違った気がする。
Youtubeのパートナー契約も、Youtubeが出てきた当初にはなかった。
つまり、Youtubeで再生されても稼げなかった。
Youtuberはいなかった。
みんな、稼ぐためではなく、趣味でサイトや動画を作っていた。
利害関係はなく、ただただ、発信したいという人が発信していた。
コンテンツが基本無料の時代。
昔だったら、文章コンテンツの媒体は、本や新聞や雑誌をだっただろう。
本や新聞や雑誌はそれ自体を販売することで利益を上げていたはず。
本を買う基準はなんだろう。
恐らくタイトルも大事だが、中身なのではないかと思う。
雑誌も新聞も、講読する基準は中身だろう。
また、その良い中身を継続して出版することによって得られる、信頼性、雑誌ブランドも重要だったと思う。
しかし、今、文章コンテンツの媒体が無料のネットコンテンツになると、状況は変わる。
それを読むかどうかは中身よりも、タイトルの方が重要になった。
ネットに落ちている文章はほとんどが無料だ。
本を買うか悩むというステップがなくなった。
ブランド力も無いに等しい。
人は、1日に何サイトも訪れるようになった。
ユーザーが検索から訪れるサイトはいつも購読しているサイトではなくて、検索にひっかかったサイト。
今までのように
雑誌をパラパラ立ち読みする → 面白い → 買う。(製作者の収益)
ではなくなった。
面白そうなタイトルの記事にする → 人が来る → 記事がたとえつまらなくても広告費が入る。(製作者の収益)
これで良くなった。
客がその記事に踏み込めば良いのだ。
中身を良くして買わせる必要がなくなった。
ユーザーがページを開きさえすれば、そして、広告を見さえすれば、それで利益を得る事ができる。
ユーザーが読んで、たとえ「つまらねぇ!」っと思われようが、読まれた時点で勝ちなのだ。
本に例えれば「手に取らせる」までが目的になり、そこから「レジに持って行かせる」必要がなくなってしまった。
今まで、「どうやってレジに持って行かせるか」を考えて作られていたコンテンツが多かったのに「どうやって手に取らせるか(サイトを開かせるか)」という目的のコンテンツにシフトしたように思われる。
さらには、全くコンテンツを提供しない媒体まで登場した。
記事への仲介をするニュースアプリなどだ。
ニュースアプリが表示するのは、その記事のタイトルとサムネイルまでだ。(要約がある場合もある)
クリックされたあとのコンテンツのクオリティは、その記事を書いた人に責任がある。
つまり、ニュースアプリは、ユーザーに「タイトル」と「サムネ」のみを提供している。
逆に言えば、「タイトル」と「サムネ」が重要であり、その2つだけあれば稼げるということかもしれない。
コンテンツの制作費が少なくなった。
昔であれば、本を出すという事は、紙やインク代、印刷費、本を運搬し、書店に並べて、販売する人。
どれだけの費用がかかったかわからない。
しかし、今、私がこの文章をアップするのは、書いて、投稿ボタンポチって押せば、おしまいです。
記事を生産して、ユーザーに届けるまでのコストがめちゃくちゃ下がっている。
っであれば、数撃ちゃ当たるで書いても全く問題ない。
本などであれば、「売れなきゃ在庫が負債になる。内容を厳選し、練った物を書かなければいけない」となるでしょう。
文章も、一度出版してしまったら、回収できないので、十分な推敲を重ねてから世に出していたはずだ。
しかし、ネットにばらまく記事であれば、「よし、書いちゃったから投稿しよう」というレベルだ。
おれもそうやって毎日投稿している。
修正もコストもかからず容易にできる。
そして、何記事投稿しようと、デメリットはあまりない。
電子的な世界では、場所も取らない。
っであれば、ひたすら多数の記事を書くのがPVなどを稼ぐ近道という事になってしまっている。
ネットの世界は、質より量な気がしてくる。
それでは、クオリティが落ちるのは当然だろう。
ネットのユーザーは非常に多い。リピーターよりも、新規獲得が重要。
ネットを利用するユーザーの数は膨大だ。
リピーターがいなくても、新規の客を獲得し続ければ、売上は伸びる。
ブロガーはみんな言っているが、読者よりも、検索されることの方が重要だと。
何百人かのリピーターではなくて、毎日検索から来る新規ユーザーを獲得するほうが母数が多いのだ。
2016年のgoogleの検索回数は年間2兆回だそうだ。
2016年でこれなら、今はもっと増えてるだろう。
市場のデカさが尋常じゃない。
ネットの世界では、年間2兆人の顧客の争奪合戦が行われている。
何百人かのリピーターにこだわっている場合ではない。
それはつまり、コンテンツが読まれたあとの事なんてどうでも良いって事だ。
文章がつまらなくて、「二度と読まねぇ」っと思われようが、そんな事はどうでも良い。
1回読まれた時点で勝ちなのだ。
文章コンテンツが提供する価値の変化
以前の記事にも書いたが
お金を稼ぐためには、何かしらの「価値」即ち、「脳みその快楽」を提供する必要がある。
文章の快楽提供の内容は媒体がネットになる事によって「面白い」という娯楽よりも「ちょっと気になる」という知的好奇心を満たす快楽を提供するようにシフトしたように感じる。
これは時代によって変化したものではなくて、媒体によって変化したものであると感じる。
今でも、本や雑誌は中身で勝負だろう。
そして、ネットは知的好奇心を惹く事で勝負。
もはや、快楽的には別のコンテンツに思えますが、「文章のコンテンツ」という畑にあるために、客の奪い合いは起きているように見受けられる。
昔ながらの味で勝負するラーメン屋がカップラーメンに客を取られているような感じがする。
私のブログでよく読まれる記事にこの記事があります。
自分で言うのもなんですが、内容はめっちゃくだらないですw
しかし、アクセスは他の記事より多い。
タイトルが気になるからでしょうね。
一生懸命書くより、タイトルで釣ったほうがアクセス稼げるなら、そりゃ釣りたくなりますよw
再生数に応じて収入がもらえるYoutube
Youtubeもやはり、知的好奇心を刺激し、それを満たすという狙いが多い気がする。
サムネイルで面白そうな画像を使い。
タイトルは「【衝撃!!】原因は○○だった!!」とか「◯◯やってみた結果は?!」「◯◯は本当にできるのか!?」というような感じにする。
興味は引くが内容は再生しなければわからないタイトル。
それをみたユーザーは中身が知りたくなってしまい、中身を知るためには再生せざるを得ない。
そして、再生されればそれで目標(収益化)は達成される。
コンテンツのクオリティが低下しているのは、ユーザーも別に求めていないから。
もはや、ユーザーは、良いコンテンツなんて求めていないのではないか?と思う。
つまり、作り込まれたコンテンツに需要がない。
気になった記事を開き、「へぇ」っと言って閉じ、また気になる記事を開き「へぇ」と言って閉じる。
気になった動画を開き、良いとこまでスキップして、「へぇ」と言って閉じる。
私自身、そんな風にコンテンツを消費している自分に気がつく。
それによって特に得るものは無いが暇つぶし程度なのだ。
まるで、貧乏ゆすりのように、ニュース一覧を開き、面白そうなニュースを開き、閉じる。
それを繰り返す。
スマホを片手間にいじっているユーザーが求めているのは、質の良い、筋の通った文章などではない気がする。
求められているのは、ただ娯楽として消費する、心地よい貧乏ゆすりのような文章なのかもしれない。
そんな文章を流し読みするユーザーが多くなってきているように感じる。(私も含め)
もし、そうであれば、恐らくこの先も、中身のあるコンテンツが評価されるということはないだろう。
なんとなくスマホをいじっているタイプのユーザーは、真剣に書かれた文章など、それほど望んでいないのだ。
関連記事
コメント