ネガティブなこと書くよ気をつけて
ネガティブだよ。
一節によると、ネガティブな文章読むと、脳にダメージ入るらしいですよ。
だから、読まなくても良いですよ。
そういう人は、ブラウザバックで、良いお年を。 ノシ
ノシとか久しぶりに打鍵したわwww
本題です。
介護するとネガティブになる。
多分だが、介護すると、老いる。
逆に子育てをすると若返るように感じている。
おれはどちらも本格的にしたことは無い。
しかし、今日、どちらも体験した。
親戚の子供が来て、一緒に遊んで、夜は祖母をトイレに連れていって、飯を食わせた。
話は脱線するけど、今の2歳児はYoutube見てんのねww
スワイプめっちゃ使いこなしてる。
LINEの通知一瞬でスワイプして消せるww
時代の移り変わりだわ。
祖母の方は、もうあまり長くない。
やせ細った足と、アンモニア臭。
もう、長くない。
ご飯を食べよう、と言っても「食べたくない」と言われる。
食べたくない。と言っている祖母を無理やり起こして、食べさせるのは、もはや延命措置に近いのではないかと思っている。
そうまでして、生きさせる意味はあるのだろうか。
本人も「生きていて困る」と言っている。
延命しても、先は見えている。
死が少し遠ざかるだけであり、その死までの余生も、あまり嬉しいものでは無いかもしれない。
本人も、周りも、辛い介護の中で生きる。
しかし、目の前の祖母を見ると、やはり、無条件に「生きて欲しい」という感情が湧いてきてしまい、食欲のない祖母に食べさせたくなってしまうのだ。
孫のおれでもそうなのだから、息子と娘(おれの親父とおばさん)はなお、祖母に生きて欲しいと願っていることだろう。
介護の姿勢をみていてもそれは感じられる。
延命措置、それ自体はしたくないし、自分にもして欲しくない。
おれもそう考えているし、そういう風に考えている人の気持ちは非常によく分かる。
しかし、死にそうな自分の血縁関係が目の前にいたとき、私たちの本能は、生きて欲しいと訴えかけてくるよ。
おれの親が死にそうになったとき、「 延命措置を施しますか?」と言われた時、「もう良いです。楽にしてやってください。」と言えるだろうか。
そして、延命措置が必要な状況に自分がなったとき。
「もういいよ、楽にしてください」と言えるだろうか。
それとも、管を繋いででも生かしてくれ。1秒でも延命してくれ!となるだろうか。
正直に言うとわからない。
今の気持ちで言えば、いさぎよくこの世を去りたいという気持ちだが、いざその時がきたとき、どう思うかはわからない。
おれは、毎日毎日、死について考えながら生きています。
毎日毎日。死を考えて生きるのは疲れる。
毎日毎日。死を考えて生きるのは間違っているのかもしれない。
毎日毎日。死を見据えるのはほどほどにしなければならない。
メメント・モリのやり過ぎは、健康に悪い。
それでも、おれは考えずにはいられない。
祖母の死に、耐えられるだろうか。
父の死に、耐えられるだろうか。
妻の死に、耐えられるだろうか。
きっと辛い。
人生は死へと向かっている。
じゃぁなんで生きているのか。
わからないけども、終わりは必ずくる。
そこまでの過程にこそ幸せはある。
いや、人生の過程の中にしか、幸せは存在しない。
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