蟻が庭を歩いている。
蟻に感覚はあるのだろうか。
目があって、物が見えているのだからあるのだろう。
触覚があって、触れば感じるのだからあるのだろう。
では感情はあるのだろうか。
私が近づくと、鳥は逃げるが、蟻は逃げない。
蟻の一生とはなんなのだろうか。
私と蟻までの距離は1m、今すでに、私の足の下で死んでいる蟻がいるかもしれない。
蟻にとって。私や私の車などの存在は、火山の噴火、津波、地震レベルの災害であろう。
しかし、蟻は逃げない。
そして、私の車に轢かれて死んだりしているのだろう。
少しかわいそうだ。
だが、蟻はドライなのであろう。
生物の定義上、蟻はみな兄弟だ。
目の前で、兄弟が私に踏まれて死んでも、何も感じない。
というか、いちいち悲しんでいてはダメなのだ。
蟻なんか、1日に何十匹と死ぬのだから。
生物は小さく、死にやすくなるほど、ドライになるのだろうか。
蟻に感情はあるのだろうか。
というか感情とはなんだろうか。
どこからが感情だろうか。
おそらく、私の感覚で言えば、蟻も何かを食べたいと思っているはずだ。
食欲がなければ何も食べずに餓死してしまう。
ありは眠るんだろうか。それは知らない。
性欲はあるはずだ。
そうでなければ新たな蟻が生まれない。
問題はその欲は、感情なのかということである。
目の前で兄弟は踏み潰されても気にも止めないが、オスアリは女王アリが目の前にいれば、自分の遺伝子を残したがるはずだ。
腹が減れば、何かを食べたくなるはず。
働きアリだって、腹が減っては食わなければ死んでしまう。
そして、おそらく、何かを食べれば、満たされる感情があるはずである。
ありの脳みそは、芋虫を食べた時、人と同じように心地の良い脳内物質が出ているはずである。気持ちがいい、満腹感の電流が脳みそを流れているはずである。
それは果たして、意識と呼べるだろうか。
そして、感情と呼べるだろうか。
犬に感情はありそうだ。
哺乳類まではありそうだな。という感じになってくる。
では、コウモリには?
どの生物まで感情が存在しているのだろう。
「コウモリであるとはどのようなことか」という哲学的な問がある。
例えば犬であれば、私たちの持つ感情との類比、アナロジーによって、多分こんな感じだろう。という予想ができる。
つまり、私が肉を食って美味いと思う感情と、犬がドッグフードを食べて美味いと思う感情とはおそらく同じであろう。というアナロジーだ。
「コウモリであるとはどのようなことか」という哲学における問では
コウモリの超音波でものを見る習性に触れている。(反響定位、エコーロケーションというやつだ)
人は、超音波で物を見ることが無いので、アナロジーによる推測が不可能である。
よって、コウモリが感じている感覚を考えることは不可能。という論法だ。
しかし、私は、コウモリの超音波によって周囲を把握する感覚は、アナロジーによる類推が可能であると考えている。
いや、「コウモリであるとはどのようなことか」の問の主題とは関係が無いことも重々承知のうえでこの話をしている。
主題は意識を語る上で主観からは逃れられないという点なのだから。
関係がないことも承知のうえで、余談として、超音波はアナロジーによる類推可能という話に触れると、
人類の中には舌打ちの音の反響によって、周りの物体を把握する少年がいるそうである。(昔どっかの動画で見た)
つまり、コウモリが超音波を聞くのは人間の聴覚と同じである。
と類推することができる。
そのようにしていけば、蟻に関しても私達の感覚を投影する事によって類推できるはずだ。
確かに蟻の脳みそは小さい。
しかし、物を食べて快を感じ、オスとメスがいて、踏まれればおそらく不快である事を考えれば
私は、私の感情を持って、蟻に感情が有るのかという問に、こう類推する。
蟻にも感情がある。
ではミドリムシに感情はあるだろうか・・・
休日が終わっていく!明日は月曜だ!どうしてくれるんだ。蟻ぃ!踏むぞ!(嘘です、踏みません)
哲学的なキリンノックスでした。
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