「満足な豚であるより、不満足な人間である方が良い。
同じく、満足な愚者であるより、不満足なソクラテスである方が良い。
そして、その豚もしくは愚者の意見がこれと違えば、それはその者が自分の主張しか出来ないからである。 」ジョン・スチュアート・ミル『功利主義』 (太字は引用者)
私はずっと考えてきました。
考え過ぎる人と、何も考えないおめでたい人では、どちらが幸せなのだろうか。
そんな私は、この本に出会いました。
考える人とおめでたい人はどちらが幸せか 世の中をより良く生きるための哲学入門
しかし、この本の中身はタイトルの答えにほとんど触れていませんでした。
私はがっかりして、この本を手放しました。
そして、最近私は自分で結論に至りましたので、ここで発表させていただきたいと思います。
何も考えないおめでたい人の方が幸せである。
羨ましい限りです。
私がこの結論に至った理由はというと、哲学的理由はまったくなく
まわり見てるとそうっぽい
という理由です!!!・・・・
でも、明らかに、何も考えていない人の方が幸せそうなんですもの。
芥川龍之介もこう言っています。
彼の幸福
彼の幸福は彼自身の教養のないことに存している。同時に又彼の不幸も、――ああ、何と云う退屈さ加減!
椎の葉
完全に幸福になり得るのは白痴にのみ与えられた特権である。
人生
革命に革命を重ねたとしても、我我人間の生活は「選ばれたる少数」を除きさえすれば、いつも暗澹 としている筈 である。しかも「選ばれたる少数」とは「阿呆と悪党と」の異名に過ぎない。
芥川龍之介『侏儒の言葉』(太字は引用者)
「彼の幸福は彼自身の教養のないことに存している。」
「完全に幸福になり得るのは白痴にのみ与えられた特権」であると言っています。
J・S・ミルは、満足な豚であるよりも、不満足なソクラテスの方が良いと言いましたが、そもそも「良い」とは何でしょう。
この「良い」という言葉は、私から見れば、「幸せである」という意味にはとれません。
試しに「良い」を「幸せ」に置き換えて読んでみましょう。
満足な豚であるより、不満足な人間である方が幸せである。
同じく、満足な愚者であるより、不満足なソクラテスである方が幸せである。
うーん。これは違和感を感じます。
明らかに、満足してる豚の方が幸せそうです。
というか、「良い」という言葉より「満足」という言葉の方が「幸せ」に近いニュアンスを秘めているとしか私には思えません。
「満足 = 幸せ」 と捉えた方がしっくりきます。
試しに「満足」を「幸せ」置き換えて読んでみましょう。
幸せな豚であるより、不幸な人間である方が良い。
同じく、幸せな愚者であるより、不幸なソクラテスである方が良い。
こう読み換えると原文と近い意味なような気がしてしっくりきます。(個人的意見です。)
この文には、すでにどちらが幸せか書いてあるのかもしれません。
「満足 = 幸せ」と捉えるなら「豚の方が満足 = 幸せ」で「ソクラテスは不満足 = 不幸」なのです。
これがもはや前提なのではないかと感じます。
つまり、私の「考えすぎる人は不幸っぽくて、なんも考えてない人は幸せそう。だから考えない人の方が幸せだ。」という乱暴な結論もあながち間違ってはいないような気がします。
そもそも、ソクラテスは不満足が前提なのだから。
「満足なソクラテス」や「不満足な豚」というのも想像しにくいです。
満足という感情はやはり「幸せ」なのではないか。
では、ミルの言う「良い」とは何の意味であるか。
ジョン・スチュアート・ミルは功利主義の擁護者であり、功利主義が「最大多数の最大幸福」を主張しているのであれば、この「良い」というのは、最大幸福のことなのかもしれません・・・
最大幸福?・・・
「良い = 幸せ」は先程考えた違和感がある捉え方です。
どういうことでしょうか。
私なりに考えてみるとこういうことだと思います。
J・S・ミルは快楽には質があるとし、快楽を高尚な快楽と低級な快楽とに分けました。
そして「感覚的な快楽」よりも「知的な快楽」は価値が高いとしました。
これを加味して考えれば満足な豚の快楽は、低俗なものであるので、質が低い。
よって満足な豚は幸福ではない。
不満足なソクラテスの快楽は、かなり高尚(知的)であるので、質が高い。
よって不満足なソクラテスは幸福である。
という意味なのかもしれません。
こう解釈すれば、意味としてはよくわかります。
しかし、私は意見の内容としては反対です。
不満足なソクラテスの方が幸福なんて私の感覚とかけ離れています。
本当に快楽に低俗や高尚というものがあるのかという事が気になってきます。
それについてはコチラ記事で詳しく書きましたが
端的に言うと、私は快楽に低俗も高尚もないと思っています。
故に、ソクラテスの快楽の方が高尚だから良いものだとは私には思えないのです。
芥川龍之介も『侏儒の言葉』の中でこのように書いています。
しかし肉体的快不快と精神的快不快とは同一の尺度に依らぬ筈はずである。いや、この二つの快不快は全然相容あいいれぬものではない。寧むしろ鹹水かんすいと淡水とのように、一つに融とけ合あっているものである。
考える人はどうすれば幸せになれるのか。
「何も考えない人が幸せだ」という結論が私の中で出たとしても「考え過ぎる人」の私が「じゃぁ明日から何も考えない人になろう」っというのはそう簡単にできるものではありません。
そして、その豚もしくは愚者の意見がこれと違えば、それはその者が自分の主張しか出来ないからである。 」
ジョン・スチュアート・ミル『功利主義』(太字は引用者)
J・S・ミルは「豚はソクラテスの立場には立てないのだから反論出来ないでしょう?」ということも言っています。
しかし、ソクラテスも豚の立場にはなれないのではないかと思います。
もしも、ソクラテスの意見が真実と違えば、それはソクラテスが自分(考える側)の主張しか出来ないからという事にはならないのでしょうか。
結局、考えてしまう人は、何も考えてない豚の気持ちになる事はできない。
じゃぁ、私はどうすれば良いのでしょうか。
考えすぎる私は、どうすれば幸せになれるのでしょうか。
それに対して、私はまだ答えを持っておらず、この人生、この世の不条理に悶え苦しみながら生きています。
私は、明日からも、考えすぎて、不満足に生きるしかないのでしょうか。
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