以前の記事から内容を分離して再掲した記事です。
「自分の快楽は高尚だ。」と言う事は「お前の快楽は低俗だ」と言っているのに等しい。
人の為になる事をして感じる快楽は高尚である。という考えに、私は違和感を感じています。
また、人助けをして、気持ちが良いから自分は高尚だと思っている人もいます。
私はそうは思いません。
誰かを救うということは遺伝子的にもともと「快楽」であると思うからです。
だから「誰かのため」というのは、確かに誰かのためであるのですが、それと同時に「誰かのために行動する」という快楽を得るためともとることができる。
人を助けてみた結果、人は親切をする気持ちよさに気づく。
しかし、その快は、「人間が動物を超越した存在で、理性が本能に打ち勝ち、他人を助けたから快」なのではない。
その快は「本能を律した快」ではなく「本能に根ざした快」であると考えます。
本能にはもともと種が生き残るために、同じ種(人間)を救うことが快であるようなDNAが埋め込まれている。
人助けをして得た快楽を「理性や宗教などによる崇高な生き物であるが故の快楽」であると勘違いして「自分は道徳的だ」と崇高な気分になってしまっているように感じる。
しかし、現実にはその快の出どころは、人間の本能に根ざした快であり、
「食べたから快」「異性と話せたから快」「眠れたから快」そして低俗だと思いがちな「( 自主規制 )快」と同じ種類の快であると私は思う。
とにかく、「物を食って快」と「誰かを助けた快」は、どっちも低俗とかなくて、結局DNAによってもたらされた快に過ぎないよ。と言いたい。
芥川もこう言っています。
好悪
わたしは古い酒を愛するように、古い快楽説を愛するものである。我我の行為を決するものは善でもなければ悪でもない。唯ただ我我の好悪である。或は我我の快不快である。そうとしかわたしには考えられない。
ではなぜ我我は極寒の天にも、将まさに溺おぼれんとする幼児を見る時、進んで水に入るのであるか? 救うことを快とするからである。では水に入る不快を避け、幼児を救う快を取るのは何の尺度に依よったのであろう? より大きい快を選んだのである。しかし肉体的快不快と精神的快不快とは同一の尺度に依らぬ筈はずである。いや、この二つの快不快は全然相容あいいれぬものではない。寧むしろ鹹水かんすいと淡水とのように、一つに融とけ合あっているものである。現に精神的教養を受けない京阪辺の紳士諸君はすっぽんの汁を啜すすった後、鰻を菜に飯を食うさえ、無上の快に数えているではないか?芥川龍之介『侏儒の言葉』(太字は引用者)
そもそも、道徳的に悪とか善とかはない。
ただ、私達の体が、快、不快を感じているだけ。
そして、精神的快、肉体的快は相容れないものではなく、1つに溶け合っている。
芥川の考えは、精神的快楽を高尚だとするJ・S・ミルと逆の考え方だと思う。
ずっと私は、上記の事を思って生きてきたが、なんとなくもやもやしていた。
我我の行為を決するものは善でもなければ悪でもない。唯ただ我我の好悪である。或は我我の快不快である。そうとしかわたしには考えられない。
わたしも、そうとしか考えられません。
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